さくら

今年の桜は、虚しいさくら。

いままでで、一番。

こちらの見頃を迎えようとしていたGW後半、
岩手を離れ、友人らとともに長野、群馬路へ旅する。
妙義神社、富岡製糸場、善光寺、渋温泉、
戸隠神社、小布施、猿ヶ京温泉、
そして榛名神社へ。

旅先は五月晴れ、
花巻へ戻ればきっと、例年通り、散っているなと思っていたら、
寒さのなか、花が待っていた

今年は、まだやり残した事があるんだろ?
そう、さくらに問いかけられたかのよう。

でも、もう7日
叶わないんだ。

気温7℃
まだ咲き堪える桜の花が、つめたい雨にうたれている

いっその事、留守の間
青空に散っていてほしかったのかな。

そうやって
いつも、環境のせいにして
気持ちを整理している自分。

帰る場所

帰る場所が明確な人の強さにひかれる。

家族、恋人、友人、
実家、自分の部屋、好きな場所…

どこだっていい。

どんな場所でも
頑張ったあとに帰っていく場所が、
自分の場所って言えればそれだけでいい。

そうやって暮らしている人は、生きる楽しさに気づいているのだろう。

けれども、自分の場所がはっきりしている人に寄り添うと、
虚しくなる自分を見つけた。

自分の場所がどこなのか、決められないからかな。

無言

無言の心地よさに、気がついたよ、
いまさら。

話題をあわせたり、あわせられたり 、じゃなくって。
楽しくなくても、
手をとらなくても、
離れていても、気持ちを訪ねて、心配し合う。

そういう人に出会えたことは、奇跡だったんだ。

でも、それが幻想なのかな。
想いは、もう無言では伝えられなくなった。

1時間後も、明日も、
3ヶ月後も、1年後も、
10年たっても、かわらなかった
無言のあたたかさ。

津波のような

2012年3月4日、仙台の荒浜へ行ってきた。
僕の学生時代の一幕を記憶させた場所。

想像通りだった。
もう、この津波の被害は僕の頭で想像できるものになってしまったのであろうか。
それが、なぜか嫌になった。

立ち枯れした松林の切れ間にある供養塔に手を合わせ、
堤防のほうへ、その距離は変わらない。

砂浜は雪で真っ白で、潮騒が響く。

海に向かって左手には、遠目に仙台新港のプラントの煙が滲んでいる。
向かって右手は、蒲生や亘理のほうだなと思う。

海を背にして、基礎だけになった民家の向こうに、八木山の電波塔がみえた。
午後5時の曇り空の中、電灯がちらほら、街は動いてる。

もうすぐ、東日本大震災から1年が経つ。

人や世の流れは、まだ押し波なのか。
被災者支援、がれき処理、復興特需、人の意識の流れ。
もう少しで、津波のような引き波がきて、本当に今を壊して行くのかな。

nishiki

「錦を飾る」という言葉がある。

錦という美しいもののたとえと、
それを飾るという様式的かつ感覚的な行為と、
だれかの目に触れる、誇示するという状況を含む言葉だ。

美しきものとその飾り型。
いずれも時代を察していなければ、
共有できない表現だ。

想像力と行動力が問われているのだろう。

リブート

今日は 誕生日。

数年、サイトの更新をサボタージュしてきた。
見に来てくれる人の心配を黙殺したままだ。

たわいもない己の感覚を記事にしている事に気づいたら、
ブログがわからなくなった。

けれども、遠くにいる人に会いたくなったら、
この場所が良い気がしてきた。

またゆっくりと、ネジしめてくかな。